1985年7月24日午前、たこ八郎の訃報は全国を駆け巡った。『笑っていいとも!』での共演などで親交のあったタモリは「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」と独特の言い回しで、弔辞を述べた。たこがこの世を去ったあの日、いったい何があったのか。当時15年来の付き合いで、ともに行動していた俳優で演出家の外波山文明(とばやま・ぶんめい)さんに話を聞く。
たこ八郎が亡くなったのは、1985年7月24日水曜日。当時、『笑っていいとも!』の火曜レギュラーだった、たこは、この出演の翌日にこの世を去った。その日、たこは外波山さんらと海水浴に訪れていたという。
海水浴を楽しむたこ八郎
――当日、なぜ海に行くことになったんでしょうか?外波山文明(以下、同) たこちゃんとは毎年夏に必ず海へは行ってて、あの日も前々から行く約束はしていたんです。メンバーは僕とたこちゃんと僕の男友達、それに僕の劇団の女の子3人。僕のお店(新宿ゴールデン街のバー「クラクラ」)が終わった深夜2時ごろにその6人で、たこちゃんが「劇団で荷物運んだりするときに使いなよ」と買ってくれた中古車で東京を出発しました。
たこ八郎が生前足しげく通った新宿ゴールデン街のバー「クラクラ」。現在まで40年以上営業する名店
海に行くことは決めていたものの行き先なんて決めてないので、真鶴道路を走っているときに「ここらへんでいいんじゃない?」って岩海水浴場で遊ぶことにしたんです。たこちゃんはあの日、閉店まで僕のお店で飲んでたから、車中ではほぼ寝てましたね。――到着してすぐに海水浴に?いえ、未明の4時半ごろに着いたので少し寝てからですね。たこちゃんは起きてすぐ、少し飲んでました。海の家に行くと、まわりが「たこちゃんが来てる!」って一杯おごったりしてくれるものですから。
ウイスキーが好きだったが、飲むとすぐに寝てしまったという、たこ八郎
――その後、海に入って……。そうです。8時ごろに、たこちゃんが「ちょっと泳ごうかなあ」と言うから、一緒に海に入りました。沖のブイにふたりで捕まって少し浮かんでて、そろそろ戻ろうと引き返していた矢先のことでした。僕が足がつくところまで泳いで横を見たら、たこちゃんがいない。あれって思って振り返ると、ブイの近くでたこちゃんがうつ伏せで浮いてるのが見えて……。慌てて引き返して抱き上げると、水がブワーッと鼻と口から出てきました。浜に引き上げて顔を横に向けてお腹あたりを押すとまだブワーッと水が出てくる……こりゃダメだと一瞬でわかりました。
――救急には連絡を?連絡したんですが、渋滞の影響で到着まで1時間以上待ちました。その間、僕は由利(徹。たこの師匠)さんのマネージャーやたこちゃんの実家、赤塚不二夫さんに連絡をしました。その後、救急車が来て隊員が応急処置したときに一瞬だけ、たこちゃんの顔色がよくなった気がしたけど、瞳孔が開いていたから「ダメか……」って感じで。それで11時ごろにはテレビの臨時ニュースが流れてたみたいです。
師匠の由利徹氏(写真左)らと楽しそうな、たこ八郎
――外波山さんたちも取り調べを受けた?そうですね。僕らは小田原署に連れていかれて、警察署の体育館みたいなところの四隅にそれぞれ立たされて事情聴取されました。事件性はないということで、その日の夕方には僕らは乗ってきた車に、たこちゃんは棺に入ってワゴン車に乗って東京に戻りました。もう、帰りの車ではみんな無言ですよ。あまりに急なことでしたから。後日、火葬場でお経を読んでくれたお坊さんが、僕に「首の骨が黒くなってたから、もしかしたら泳いでる最中に血管が切れて呼吸が止まり、血が首の骨を染めたのかもしれない」と言ってました。いずれにせよ、苦しかったでしょうね……。
――外波山さんは葬儀副院長を務めたんですよね。生前から、たこちゃんが「俺が死んだら喪主は由利徹で葬儀委員長は赤塚不二夫、副委員長は山本晋也とトバ(外波山さん)がやって」と言ってたんです。24日から26日までの3日間は僕の稽古場の2階でお通夜をやり、27日に告別式を行いました。菅原文太さんも駆けつけて、当時サントリーのCMに出てたからホワイトの小瓶を500個ほど取り寄せてもらって、それを香典返しにしたんですよ。
――たこさんの地元の仙台でもお葬式をされたのでしょうか?しましたよ。7月29日に本葬を行い、斉藤家(たこの本名は斉藤清作)のお墓に納骨して。その当時、まだご存命だったご両親のご厚意で分骨をしていただき、(東京都台東区の)下谷の法昌寺にお墓をつくって、『たこ地蔵』を建てたんです。
62年に撮られた珍しいネクタイ姿。ボクシングの日本フライ級王者のタイトルに挑戦する前のたこ八郎
――生涯独身だった、たこさん。女性関係はどうだったんですか?表向きは、あき竹城と熱愛だのなんだのって騒がれてたけど、あきちゃんとたこちゃんに男女関係はありませんでした。たこちゃんは自分から女性を口説くなんてことはしないタイプだからね。でもその当時、ピンク映画にも出てた女優がたこちゃんのことをおもしろがって、一時期よく一緒にいたときはあったね。たこちゃんが「昨夜さあ、あいつが俺の上にまたがってきて……」なんて言ってましたよ。ふたりは付き合ってたわけじゃないけど、赤塚さんとかの家で飲み会があると、たこちゃんはその子を連れきてました。その子がサービス精神旺盛でみんなの前でストリップショーみたいに脱いでくれるから、盛り上がりましたよ。
「クラクラ」でよくたこ八郎が寝落ちしていたというスポット。外波山さんが再現してくれた
――たこさんは結婚願望がなかった?「俺にはそんな責任は取れねえ」って言ってたかなあ。当時は男が女を食わしていくという感覚が強かったし、そういう自信がなかったのかもしれないね。でも金がないわけではないよね。実は、たこちゃんの通帳と印鑑は僕が管理してたんですけど、亡くなったときに中身を見たら800万円ほど入ってましたし。もちろんそのお金は印鑑と通帳とともにご実家のご両親にお渡ししました。
――生前、体の不調を訴えたりしたことは?そういうことは言わなかったし、不調そうにも見えなかった。でもたこちゃんは、もしかしたら自分の体を顧みないところはあったかも。左目がほぼ見えないのだって、子どものころに友達と投げ合ってた泥が目に入ったせいだけど、母親に心配かけまいとすぐに病院に行かなかったのが原因。右耳が欠損してるのは、由利さんの弟子時代に経営してた「たこ部屋」って居酒屋で客と揉めて食いちぎられたからなんだけど、それも手術後にちゃんと病院に通わずガーゼも換えなかったから壊死しちゃったわけだし。
店の客と揉めて右耳がこのように欠損してしまった。心優しいたこ八郎が手を出すことはなく、「生意気な客が一方的にたこちゃんに因縁をつけたんだ」(外波山さん)
――そうだったんですね……。お酒もそうだよね。パンチドランカーが飲酒って脳にいいわけないから、朝からウイスキーを飲もうとしてるときなんかは僕が「朝からはダメ」ってボトルの中身を窓から全部捨てたことがありました。本人も飲み過ぎの自覚はあったのか、「すべて酒は朝とひるはのまません」(※原文ママ)と誓約書を書いてました。
左のたこ八郎直筆の誓約書には「朝とひるはのまません」と書いてある。右はネタ帳。中には「死は生きてる事のエンチョーにすぎない」といった彼の死生観がわかる名言も
――しかし、44歳での死は早すぎました。たこちゃんが死んでしばらくは忙しさに追われてたけど、やっぱり1ヶ月後くらいに、ふと「本当にいなくなっちゃったんだな……」って感覚に襲われて。そう思うと涙が止まらなかったよ。でも思い返してみれば、誰もがみんな世話を焼きたくなる愛すべき人だったけど、いつかいなくなっちゃうような危うさがあったとも思います。
お蔵入りとなったたこ八郎の伝記映画『赤い拳』の台本。「今やってもウケそうだよね」(外波山さん)
外波山さんいわく、たこ八郎のトレードマークのあの前髪には「一本筋を通す」と言う意味が込められていたという。どこか得体が知れなかったたこ八郎だが、44歳での死は早すぎる。赤塚不二夫いうところの「現代の妖精」のまま逝ってしまった、たこ八郎を今改めて偲びたい。取材・文/河合桃子 写真提供/外波山文明集英社オンライン編集部ニュース班