「寒ブリ漁はもうだめですわ」船が壊された漁師町…「12月に建てたばかりの娘夫婦の新居も全壊で、俺、泣きました」被災地入りしたボランティアたちは何を思うのか〈ルポ能登半島地震・珠洲市〉

ここ数年の度重なる震度6級の地震に加え、元日に最大震度7の激震に見舞われた奥能登の石川県珠洲市。中でも津波による甚大な被害を受けた北東部の沿岸に位置する三崎町寺家地区を6日、歩いた。
海岸沿いの道には、津波が押し寄せ一気に引いていったのか電動歯ブラシ、テレビのリモコン、イスといった家財道具が散らばっている。6日になって大勢の人が避難所から自宅に戻り、片付けに精を出していたが、幸いなことに同地区では犠牲者は確認されなかったという。近隣の男性住民が語る。
海岸沿いに落ちていたテレビのリモコン(撮影/集英社オンライン)
「地震の揺れは相当大きいものでしたが、その後の行動についてはわりとみんな早かったと思います。私もすぐに高台まで避難しました。やっぱり頭の片隅に東日本大震災の津波の映像が残っていて、すぐにあのイメージに繋がったので早く動けたというのはあります。津波がくる可能性があると言われてもこの辺では慣れっこになってしまっている人もいるのですが、今回の揺れ方はひどかったので、みんな避難したんだと思います。私の家も一切合切ダメになってしまいましたが、私が知る限りはこの地域で死亡者がいるという話は聞いてないです」40人近くが身を寄せ合い生活しているという川上本町集会所を訪ねてみた。年配の男性が左腕を三角巾で吊り、水を汲もうとしていたので、手伝いを申し出ると「こうしたら持てますから大丈夫です」とかがんで水を持ち上げて見せてくれた。右頬の皮膚がめくれたように剥がれ、生傷もまだ癒えておらず、改めて過酷な状況だったことを物語っていた。
津波の爪痕(撮影/集英社オンライン)
同集会所の代表を務める町会区長の辻一(かず)さん(68)は津波の被害についてこう語った。「俺も今回の地震の後、いろんなルートを車で回ってみたけど、津波の被害が一番ひどいのはここらだって感じてはいるね。ここまで大きな津波は生まれて初めてです。昔は地震もそんなになかったし、ここは雪も少なくて、過疎化は進んでいるけど住みやすい場所だって俺は思うてるけどね。ここらは漁師の人間が多いから波の動きは読めるんだけど、今回のは『おい、今までの波の引き方と違うぞ』という波だった。高台から見とったけど1波よりも、ぐーっと来た2波のが大きかったね。引き波が海岸線から300メーターくらいガーっと引いていった。干潮でもここまで潮が引くことはないし、とにかく68年間の人生の中でこんなに潮が引いたのは初めて見ました」
寒ブリ漁の盛んな同地区だが、漁船はことごとく流され、大破し、使い物にならない。「まぁ、想定外やね。この辺りは寒ブリだな。みんな船流されたり裏返ったりして、もうダメですわ。ただ悲観はしてないかもな。年配の漁師たちは『あーちょうどよかった。もう漁師やめる時期や。もうなってしまったもんはどうしようもないな。あとは保険がなんぼ降りるかな』くらいのもんやで。もうダメになったもんをどんだけ悲観しても一緒だからな。そういう話しとらんとやりきれませんよ」
珠洲市内の海岸付近にうちあげられた船(撮影/集英社オンライン)
辻さんは地震のあった元日は、能登半島の最先端にある須須神社にいたという。「私は須須神社の氏子総代もやっとるもので、受付のお手伝いで上がっとったんよ。それで『今日の神楽は終わり』と告げた途端にガーッと揺れ出した。隣の区の集会所の高台に避難して、波が落ち着いてから歩いて自宅に戻ったんだけど、受付しとったけ背広来て革靴履いとってね。道なんかずっと、水が高い位置まできとったから、やっとで家までたどり着いたわ。ただおかげさまで怪我人はでましたが、寺家には犠牲者はいません。避難所になった集会所では風呂入りたいなどいろいろな要望があるけど、多いのはちょっとした自由がほしいって声だな。散歩なんかはしてるけど、基本は缶詰状態でザコ寝で仕切りもないもんだからな」犠牲者は出なかった。しかし、津波が奪ったものはあまりにも大きかった。娘夫婦が新築したばかりの家が、壊滅したのだ。辻さんの表情が見る間に暗くなった。「ウチの娘と婿さんがクリスマス前に沿岸部に家を新築して12月10日ぐらいに完成して入居したばっかのとこでよ。ウチは高台にあったんで、娘は妊娠中で切迫早産の可能性があったもんだから実家に来とって、地震のときもな。ウチは高台にあるもんで助かったんだけど、新築の家はダメになってますわ。新居見てきてくださいよ。俺泣きましたよ。泣きました、俺。娘と婿に『ここに土地あるさかいにこっちこいや』て建てさせたのに。俺が呼んださかいにこんなんなったんかなって悪いほうに考えてしまって。娘と婿は2日の日に大事なものだけ取り行くと新居行って2人して泣いて帰ってきて……。『保険入っとんたんか』って俺もそこまで聞かれへんでね。今は娘は金沢のほうに避難して、赤ちゃんも来月出産予定で落ち着いてるんだけどね」娘さんはまだ20代で、大工の夫と直前までは珠洲市の飯田地区で暮らしていたという。
押し寄せた津波(住民提供)
「3年前に結婚して、新居は大工の婿さんが自分で建てた家なんよ。こだわって、でかいサッシ使ったり自分でいろんなもん選んで建てた家だったからなぁ」
同地区だけではなく、珠洲市内はどこを歩いても壊滅状態だった。宮城県石巻市のNPO法人「MAKE HAPPY」の理事長をつとめる「かごしマン」こと谷口保さん(47)は、能登半島地震を受けて3日に現地に入り、避難所への物資の運搬を行なっているという。
「かごしマン」こと谷口保さん(撮影/集英社オンライン)
「当団体では現在、後方支援をふくむ数十人のメンバーとともにカップラーメンやレトルトカレーの他、野菜や調味料といった避難所への支援物資の運搬を行なっています。これまで東日本大震災や熊本地震などの災害現場で活動を続けてきましたが、とくに意識しているのが、各避難所が必要な救援物資の『ニーズ』に対応すること。今回も、市街地にある避難所では『火』が使えないので、カップラーメンやレトルトカレーを求める声が多いのですが、集落にある避難所は違います。住民たちが集まり、火を起こして炊き出しを行なっているところも少なくないので、そういった場合、野菜や調味料といったモノを求める声が多い。そうしたいろいろなニーズに対応し、『必要なモノを必要な人に届ける』ことを意識して活動を続けています」また、ある被災現場には「静岡県議会」とロゴの入った作業着姿の男性がいたので声をかけてみた。「私は昨日被災地に入り、車中泊をしました。静岡からですと6時間くらいで石川県に入れるんですよ。29年前の阪神大震災の際は車に自転車を積んで現地入りし、被災地を回りましたし、東日本大震災でも、翌日に現地入りしました。新潟から山形を抜けて宮城に入った形です。宮城では炊き出しなどにも参加し、被災地を見て回りました」この県議は家業が電気店で、その知識と経験を活かして被災地で役に立てるのではないかという思いで、これまでさまざまな被災現場を訪れてきたという。「車の中には鉄を切ったりする工具もありますし、燃料タンクなども積んでいます。今回、静岡県からは緊急消防援助隊68隊239名が珠洲市に派遣されていて、何かできることがあればという思いもあります。それに静岡県には駿河湾地震がありましたし、南海トラフ地震の可能性がありますよね。こうして被災地を訪れるのは静岡にも十分起こり得る可能性のあることとして見聞を深めるという目的もあります。さまざまな状況を見ておけば、いざというときに対応を取りやすい。いろいろな現場を見てきましたが、珠洲市の被害はひどい状況だとは思います。いずれにせよこうして見て回ることで危機管理の意識ができる」被災した多くの地域ではボランティアの受け入れ態勢が整っていないのが現状で、県議の行動には賛否がわかれるところだろう。だがこうした人々の善意が少しでも被災地の役に立ち、望むわけではないが、次なる「現場」への教訓に繋がることを祈らざるを得ない。
避難所に届いた物資(撮影/集英社オンライン)
取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班