ライト兄弟によって人類初の動力飛行が成功すると、その技術は世界各国で研究がすすめられました。日本も同様で欧州列強を追いかける形で研究しますが、当初操縦するパイロットは“工兵”扱いでした。
1903年にライト兄弟が人類初の動力飛行を成功させると、その技術は世界各国で研究がすすめられました。1914年に勃発した第一次世界大戦では、既に偵察機として戦力化されており。大戦中には欧州列強各国が、戦闘機や爆撃機も投入、休戦となる1918年には、航空機が軍事作戦の重要な位置を占めるようにまでなりました。
「気球乗れるなら飛行機もいけるでしょ!」日本の航空部隊の意外…の画像はこちら >>第二次大戦中に日本陸軍が運用した一式戦闘機「隼」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
そうした、欧州列強と肩を並べるべく軍事力を強化していた明治時代の帝国陸軍も例外ではなく、軍用機部隊を立ち上げようと、航空機と航空戦術について、躍起になって研究を進めました。
最初に帝国陸軍が航空戦力として導入したのは、気球による航空偵察です。これは、航空機が一般的に軍用として普及するよりも以前から取り入れられた偵察方法でした。
使用方法は単純で、熱気球に偵察兵を乗せて上空へと持ち上げ、周囲の敵陣地偵察や砲弾の着弾状態などを観測していました。このような熱気球を作ったり、運用したりしていたのは帝国陸軍工兵気球部隊で、1904年に始まった日露戦争の旅順攻略の際に、気球を使用して敵情を視察したのが最初の仕事だったようです。
日露戦争後には、軍用航空機の開発が本格化し、日本も軍用化に向けて一歩を踏み出します。日本で最初に動力付き飛行機で空を飛んだのは陸軍の軍人で清水徳川家の当主でもあった徳川好敏と日野熊蔵でした。外国産の飛行機を研究し、1910年12月19日、代々木練兵場(現:代々木公園)で日本国内初飛行を成功させます。
このときは外国製の機体による飛行でしたが、翌年の1911年5月5日には早くも、国産民間機による初飛行も成功することになります。
そして、日本が第一次世界大戦に参戦後、1914年10月から11月に起こった青島の戦いで日本陸海軍は初めて飛行機を戦場に投入しました。
この戦いで日本陸軍は、青島の湾内に籠るドイツ軍艦に対し、保有していたモーリス・ファルマン MF.7数機を用いての爆撃を試みます。これを行う航空部隊を担ったのは、なんと熱気球を製作運用していた工兵部隊の兵士たちでした。
現代であれば、熱気球と航空機の飛行するメカニズムは、全く違うことが理解できますが、明治から大正にかけてのこの時代、まだ航空の専門家もおらず「気球も飛行機も空を飛ぶから」といったような理由で、熱気球を担当していた工兵部隊に白羽の矢が立ったようです。
どう考えてもお門違いな任務ですが、彼らはそれでも航空機を研究し、爆弾を胴体の下に紐で吊るした簡素な爆撃機を作り、出陣しました。これは大した効果を上げなかったといわれていますが、日本の航空機部隊の初陣であるといえます。爆撃任務のほかにも、陸軍初の航空部隊は青島で偵察飛行を行い、敵陣配置の情報などをもたらすことで要塞化された青島の攻略に貢献しました。
その後、1919年に所沢へ陸軍航空学校が開設、1925年にようやく航空部隊は工兵科から独立して航空科が生まれました。こうして帝国陸軍の戦闘機部隊が誕生し、第二次世界大戦では、一式戦闘機「隼」などの戦闘機を駆り、大戦序盤ではアメリカやイギリスの航空戦力と圧倒する花形部隊へと成長していったのでした。
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偵察や爆撃などの任務に世界各国で運用された初期の飛行機であるモーリス・ファルマン MF.7(パブリックドメイン)。
ちなみに航空部隊の独立以降も、気球部隊は工兵部隊に残されました。彼らは、第二次世界大戦終盤には、コンニャクから作った糊と和紙で、丈夫な気球を作り、爆弾を搭載して偏西風に乗せてアメリカ本土を爆撃する通称「ふ号作戦」を決行。爆弾を搭載した気球は、ほとんどが太平洋に沈みましたが、数百個はアメリカ本土まで到達し、第二次世界大戦中唯一のアメリカ本土での敵の攻撃による人的被害も与えることになります。