「船橋と津田沼、どっちが都会?」 「地元自慢」の武器だった津田沼パルコ 変化する駅前の風景【コラム】

船橋と津田沼、どっちが都会か-。千葉県の船橋市内の高校に通っていた30年ほど昔、クラスメートとの他愛もない雑談で「地元自慢」が時折テーマに挙がった。
JR総武線で2つ隣のターミナル駅同士。船橋駅周辺に住む生徒は「東武と西武があるからウチは都会」と主張。一方、津田沼駅方面の生徒は「津田沼にはパルコと丸井がある」と誇らしげだ。
どちらもそこそこ栄えているので不毛な議論ではあった。が、「若者の街」という面ではパルコのある津田沼に軍配が上がる、との認識は一致した。当時のパルコは、津田沼自慢の〝武器〟とも言える存在だった。若者向けファッションに強い丸井があったことも強みではあったが、店舗規模が小さかったのでそこまでではなかったように思う。
その津田沼パルコが、きょう2月28日に閉店する。近隣施設との競合激化が背景という。
大きな転機は、1996年の東葉高速鉄道の開業だった。東京方面へのアクセス手段が増え、JR津田沼駅、新京成線新津田沼駅の乗降客が減少した。さらに、車で買い物に行ける郊外型ロードサイド店の隆盛、インターネット通販の台頭が追い打ちをかけた。
津田沼は元々、商業戦争が激烈な地区である。1970年代後半には地区の人口増を背景に大手スーパーや百貨店が相次ぎ進出し、「津田沼戦争」とも呼ばれた。
長崎屋、高島屋、丸井…。戦いに敗れ消え去った店は数知れず。その中で45年間も営業を続けたパルコは、熾烈な戦争をくぐり抜けた数少ない「勝者」だった。

その秘訣は何か。単にモノを売るだけにとどまらず、先端のファッションやカルチャーを紹介する「若者文化の発信拠点」であり続けたことが奏功したと言える。周辺の商業施設とはひと味違う、感度が高くてお洒落なモノたちがそろっていた。
「自分の小遣いで初めて服を買った」「初めてのギターを手に入れた」「本、CDをたくさん買った」「よく映画を見に行った」―。ネット上には、そんな若者文化についての思い出話があふれている。
津田沼パルコの閉店に際し、現代美術家の会田誠さんは28日、こんなツイートをしている。「津田沼は1990年代後半に住んだ。パルコの中だけが東京だったんだよねえ…」。
「パルコの中だけが東京」。まさしくその通りである。
しかし、そのパルコですらも時代の流れには抗えなかった。近年の商業環境の変化の急速ぶりには、驚かずにはいられない。冒頭の「地元自慢」で挙がったような西武も丸井も、そしてパルコすらもなくなってしまうような未来を、当時の地元の若者たちは想像すらしなかっただろう。
これから津田沼の地元自慢は何になるのだろう。新興住宅街の「奏の杜」? 次々と校舎が建て替えられ真新しくなった駅前の千葉工業大? 言い方は悪いが、ちょっとパンチ力が足りない気がする。
少なくとも商業施設では、パルコほどの存在感のあるところは思いつかない。このたびの地元民の間にあふれる「パルコロス」の声の多さは、それを物語っているのではないだろうか。

百貨店・ショッピングビルの撤退の進行は全国的傾向でもある。中心街での商業に活路を見いだせず、跡地がマンションとなるケースも少なくない。津田沼パルコ跡は、B館が商業施設になることが発表されたが、A館跡の計画は不透明。なお、船橋西武跡は、低層に商業機能を持つタワーマンションが建設される予定である。
もはや駅前商業施設がその地のブランド力を象徴していた時代は、遠い昔のこととなりつつあるのだろうか。街が変化していくのは致し方ないこととは言え、特色ある商業施設が中心街を彩る光景がどんどん消え去ってしまうのは寂しい気もする。(平口亜土)