宮古島初のJリーガーで2022年シーズンを最後にプロ生活の幕を閉じた上里一将さん(36)が28日、那覇市内で引退会見した。この19年間を「もっとできるんじゃないか」という悔しさの連続だったと言い、原点の「反骨心」で成長を心掛けた。J2だった琉球の4年間も「J1昇格を目指して必死に頑張ったが達成できず責任を感じる。沖縄の子どもたちにJ1で戦う姿を見せられなかったことが一番悔しい」と最後まで満たされなかった思いを語った。これからは指導を通して子どもに夢を与える存在になりたいと新たな目標を掲げた。(溝井洋輔)
上里さんはコンサドーレ札幌を皮切りに5クラブを渡り歩いてJ1とJ2リーグの計488試合に出場。Jリーグカップや天皇杯を含めた通算504試合は県出身者最多で、琉球では2019~21年の3シーズンに主将を務めた。
志半ばで引退した悔しさを吐露する上里さん。19年間で誇れることを問われると「ぼくはそこまでうまい選手ではないので、貫き通したことはいっぱいある」と述べ、継続してきたルーティーンを挙げた。試合で100%を発揮するため逆算して体調を整え、鍋主体の夕食や自主トレ、起床や就寝時間の管理などに徹底的に取り組んできた。今なお子どもたちにプロのプレーを見せられるようトレーニングを続けている。
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「ゴン中山」こと元日本代表の中山雅史さんを見てプロ選手を夢見た小学校時代、またJリーグ入りを決めた際に批判的な言葉を掛けられたとき、原点となる強い気持ちが芽生えたという。「ここまで頑張れたのは見返してやりたいという反骨心だった」と語った。
それでも「かかわったすべての方に感謝の気持ちを忘れず、沖縄の子どもたちに幅広く指導しながらぼくも前に進んでいきたい」と言う上里さん。サッカーに限らず離島の子らを幅広く支援する考えを示し、「恩返しできるよういろいろな方と相談しながら行動で示したい」と力を込めた。
■苦しかった記憶多い 上里一将さんと報道陣との主なやりとりは以下の通り。
-プロ生活で最も記憶に残る試合や場面は。
「苦しんだことの方が多かった。シュートやアシスト、勝ち負けよりも試合で自分ができなかったことを思い返し、もっとできたんじゃないかと感じていた」
-FC琉球の契約満了のリリースで『心の整理ができていない』とあった。
「みんな引退したときにやりきったとか、自分の中でいったん区切りついたとか言葉を並べるが、自分は足りない所が多かった。悔いの残る引退だった」
-宮古島初のJリーガーという看板が常にあった。
「ネガティブな言葉で批判もありながらプロの世界に飛び込んだ。小学生のときプロサッカー選手になりたいと話したときも友だちやいろんな人にばかにされた。頑張れたのは、ひと言でいうと、見返してやりたいという反骨心だった」
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「サッカー選手になりたいと思わせてくれたゴン中山(中山雅史)さん。札幌時代に一緒にプレーさせてもらった。私生活・トレーニングを含めてサッカーに対していちず。この人にあこがれてプロサッカー選手になってよかった。すべてにおいて完璧だった」
-現役を長く続ける秘訣(ひけつ)はあるか。
「自分の体を早い段階で知ることに尽きる。ベストの体重、体脂肪がどれくらいか。けがをする状況をつくりだすのも自分。今は全然疲れないし、けがをしない。若いときに気づけたらもっと成長できたと思う」
-夢や目標は。
「沖縄の子どもたちはポテンシャルがすごくある。派遣旅費の負担でぼくもプロになれなかったかもしれない。子どもたちには夢を諦めないでほしい。宮古島、石垣島、離島の子どもにサッカーだけでなく多くのスポーツで夢を与えられるようサポートしたい」
うえさと・かずまさ 1986年3月、宮古島市生まれ。平良南小-平良中-宮古高を卒業後、宮古島初のJリーガーとしてJ2コンサドーレ札幌と契約。FC東京、札幌、徳島ヴォルティス、札幌、ロアッソ熊本と渡り歩きJ2に昇格したFC琉球は4年間プレー。通算19年間にJ1が12試合、J2は476試合の計488試合に出場し31得点を挙げた。2023シーズンから琉球アカデミーロールモデルコーチに就任。