近年、全国各地でクマが人を襲う事故が多発している。環境省によれば、昨年(2023年)のクマによる人身被害件数は198件で、統計開始以来もっとも多かったという。
被害に遭った人々は、いかにしてクマに遭遇し、何を思ったのか――。本連載では、近年の事故事例を取り上げ、その実態に迫る。
第2回目に紹介するのは、2014年に東京・奥多摩の川苔山(かわのりやま)山頂付近で1人の登山者が襲われた事故。なお川苔山は1363mと中程度の標高ながら、山頂から四方に尾根が伸びているため、それぞれに個性のある登山ルートを楽しめる山として人気がある。
※ この記事は、山登りやアウトドアのリスクについて多くの著作があるフリーライター・羽根田治氏による書籍『人を襲うクマ 遭遇事例とその生態』(山と渓谷社、2017年)より一部抜粋・構成。
登山者で賑わう山頂直下でクマと対峙2014(平成26)年9月28日の日曜日、松井幸男(仮名・34歳)は早朝に自宅を出発し、JR青梅線鳩ノ巣駅近くの町営駐車場に車を停め、電車に乗り換えて奥多摩駅まで行った。駅に設置されていたポストに登山届を提出したのち、バスで川乗橋へ。百尋ノ滝経由で川苔山に登り、鋸尾根から杉ノ殿尾根をたどって鳩ノ巣へ下りるというのがこの日の予定だった。
松井にとっては久しぶりの山登りであった。秋山シーズンが終わる前に北アルプスにでも行きたいなあと思い、その足慣らしのつもりで計画したのがこの山行だった。ちょっと前にはスマホの地図アプリを購入していたので、それも実際の山で試してみたかった。
天気はよく、日曜日ということもあってコースには大勢の登山者が行き交っており、百尋ノ滝でもたくさんの登山者を見かけた。迷いやすそうなところに差し掛かると、地図アプリで現在地を確認した。アプリを立ち上げるだけで現在地が液晶画面の地図上に表示されるのを見て、「これはたしかに便利だな」と思った。
川苔山の山頂に着いたのが11時ごろ。ちょうど昼どきだったので、20人ほどの登山者が思い思いにランチタイムを楽しんでいた。松井も山頂のかたわらに腰を下ろし、3つ持っていたおにぎりのうちふたつを食べた。松井は言う。「このときにもうひとつおにぎりを食べていたら、ってよく思うんです。あと2、3分、山頂でゆっくりしていたら、何事もなく無事下山していたかもしれないのに」と。
山頂では30分ほど休憩して下山にとりかかった。山頂直下の東の肩の広場では、中年の男性が縦笛で「コンドルは飛んでいく」を吹いていて、山頂から先に下りていた何人かの登山者が立ち止まって耳を傾けていた。登ってくるときも同じ男性を見かけていたので、「このあたりではちょっとした有名人なのかな」と思いながら、松井はその横を素通りしていった。このときのこともまた、「もし立ち止まって笛を聞いていたら、違った結果になっていたかもしれない」と、のちに何度も自問することになる。
その東の肩からわずかに50メートルほど下ったときだった。右手の藪の中から「ウー」という唸り声が聞こえてきた。犬の唸り声に比べるとかなり低い。瞬間的になにか嫌な予感がした。明らかに犬の唸り声ではなかったが、頭では「犬だったらいいな」と思っていた。
「人間の脳が勝手に引き起こした願望です。自分のなかで現実を直視できなかったんでしょう」
その方向を見ると、3メートルほど先の藪の中に腰ぐらいの高さの真っ黒い塊があった。反射的に「クマだ」と思った。その後2、3秒の間にいろいろな思いが頭の中を駆け巡った。
「マジか。これはほんとに現実なのか」
「この俺に向かってくるの? いや、俺の番じゃないでしょ」
「これは俺の人生のなかに組み込まれていないことじゃないの」
その間にクマは藪の中から登山道上に飛び出してきて、行く手を塞ぐような形になった。その距離約1メートル。歯を剥き出しにした、ものすごい形相をしていた。
一瞬、逃げようとも思ったが、足が動かなかった。
「わ、ヤバい。どうしよう。これって死ぬパターンだよなあ」
「クマは坂道に強いっていうから、走っても逃げられないだろうな。そもそも背中を向けるなんて論外だし」
「いっそ強気に出てみようか。でも、強気に出て刺激すると反撃されるかな」
「それともなだめてみるか。でも、下手になだめようとしたら、『こいつ、弱いな』と思われて、めためたにやられちゃうかも」
「本には『クマに遭遇したら静かにあとずさる』って書いてあったけど、目の前1メートルのところに飛び出してきたときの対処法はどの本にも書かれてなかったよなあ」
「結局のところ、クマの気持ちなんてわかるわけがない」
わずか数秒の間に、いろいろな思いが次から次へと浮かんでは消えていった。そして松井が次に取った行動は、右手に持っていたストックを振りかぶって、クマの顔の左側を横から叩くことだった。
「今考えると、クマと対峙しているストレスに耐えきれなくなったんだと思います。もちろんそれで撃退できるとは思っていませんでしたが、ちょっとでも嫌がって逃げてくれればいいなと。それに、なにも抵抗しないままやられるのも嫌でしたし」
だが、手に伝わってきたのは頑丈な肉厚の物体を軽く叩いたような感触で、当然のことながらまったく効いていなかった。
「叩くまではずっとクマと目を合わせていました。でも、叩くときに、つい目を逸らして叩くところを見てしまいました。それでスイッチが入っちゃったみたいです」
次の瞬間、クマは四つん這いの状態から立ち上がり、大きな口を開け、歯を剥き出しにして襲いかかってきた。ツキノワグマなのでそれほど大きくはないはずなのだが、背丈は自分と同じぐらいに見えた。そのときに思わず目をつぶってしまい、そこから先の映像的な記憶はほとんどない。
「山頂でもうひとつおにぎりを食べていたら…」 下山中にクマ「…の画像はこちら >>
男性がクマに襲われた「川苔山」の山頂(SARUNASHI-PAPA / PIXTA)
周囲の登山者に助けられてクマの襲撃を受けてからおよそ1時間後、遠くのほうからヘリの音が聞こえてきた。まわりの人たちが「あ、来たよ」「あれじゃない?」と口々に言ったので、「やっと来てくれたか」と思った。それとほぼ同時に、下から警察と消防の救助隊員が上がってきた。警察官が消防隊員に「どれぐらい時間がありますか」と尋ねていたので、消防防災のヘリだったのだろう。
ピックアップされる前に、警察官から簡単な事情聴取を受けた。その際に、まだ気が動転していたせいか「クマに噛まれた」と述べて、それが新聞報道で流れたが、実際には噛まれておらず、受傷はほとんど爪によるものだった。
やがてヘリがホバリングの態勢に入り、ストレッチャーに乗せられて吊り上げられた。機内に引きずり入れられるときに左肩に強い痛みが走り、のちの診察で左鎖骨が折れていることが判明した。救助ヘリの上にはもう一機、報道のヘリが飛んでいて、救助活動の様子がこの日の夜のニュースで流された。事故発生からわずか1時間余り、どこからマスコミに情報が伝わったのか、不思議でならなかった。
搬送されたのは立川の病院で、すぐにCTスキャンやレントゲンを撮影し、傷を洗浄したのち縫合手術を受けた。傷は目の周囲と鼻、左胸と左腕、それに頭部にも一撃を受けていた。とくに目の周囲を縫うときは何本も痛み止めの注射を打ったのにあまり効果がなく、死ぬかと思うほど痛かった。
「正直、クマにやられているときよりも痛かったです」
頭部の傷はホチキスのようなものでパチンパチンと閉じられ、縫合は計40針ほどに及んだ。医者からは「眼球は大丈夫だけど、右目の筋肉が切れているかもしれない」と言われ、最悪、失明も覚悟し、「そうなってもしょうがないな」と思った。
報せを受けた両親は、その日のうちに病院に駆けつけてきた。重傷を負った息子を心配する両親の沈痛な様子を思い、「申し訳ない」という気持ちでいっぱいになった。
救急病棟に入院して2日後、両目を覆っていたガーゼが取れて、一般病棟に移った。ようやく目を開けられるようになって景色が見えたとき、「ああ、大丈夫だった」と深く安堵した。
実はこの山行にはあまり山慣れていない友達をひとり誘うつもりだったが、結局はひとりで行くことになった。もし同行していた友達がクマに襲われて大ケガでもするようなことになっていたら、彼の両親に顔向けできなかっただろうなと考えると、ひとりで行ってよかったのかなあとも思う。
集中治療室に入っている間、その友達からはたくさんのLINEが入っていた。松井がクマに襲われた前日には、御嶽山が噴火して多くの登山者が命を落としていた。友達は松井が山に行こうとしていたことを知っていたので、もしかしたら御嶽山に行ったのではないかと思って連絡を入れてきたのだが、まったく返信がなかったのでひどく心配していたらしい。一般病棟に移ってやっと連絡がついたときに、彼は言った。
「ずっと連絡していたのに、いったいどうしてたんだよ」
「実はクマに襲われて入院しているんだ」
「お前、マジつまんねーな。そういう冗談はいいから。御嶽山に行ったんじゃないかと思って、こっちは本気で心配していたんだぞ」
「いやいや、そう言われても。ほんとのことだし」
その後、何度か入退院を繰り返し、手術も2回行なった。一度目は粉砕骨折した鼻にチタンを入れ、二度目は切断された目と目の間の筋肉を糸で繋げた。ただ、潰れてしまった涙管はもとにはもどらなかった。ふつうだったら鼻のほうに流れていく涙が流れていかず、わずかな刺激を受けただけで目から溢れ出てきてしまうという。唯一残った後遺症がそれだった。