第二次大戦のポーランド戦といえば、かつてはドイツ機甲部隊にポーランド軍が騎兵突撃したという逸話が語られたことも。しかし、実は、自国で量産した戦車を持ち、ドイツ軍部隊を打ち負かしたこともあったようです
第二次世界大戦の端緒とされるドイツのポーランド侵攻が始まったのは、1939年9月1日のこと。それから85年の年月が経ちました。
誰が言い出した?「騎兵が槍で戦車に突撃!」第二次大戦ドイツ軍…の画像はこちら >>ポーランドで製造されていた戦車7TP(画像:Hiuppo/CC BY-SA[https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0])。
このポーランド侵攻で、ドイツとポーランドの軍事力の差を表現する小噺(こばなし)のひとつに「槍を持ったポーランド騎兵(ウーラン)がドイツの戦車部隊に無謀な突撃をかけた」というのがあります。しかし、この件に関しては公式の資料では確認できず、現在ではドイツが仕掛けたプロパガンダが強く影響しているのではといわれています。
現実は、侵攻してきたドイツの機甲部隊にポーランド陸軍は対抗できるだけの戦力を保有していたそうです。
じつは、ドイツはポーランド侵攻を始めた頃、まだ再軍備の途中でした。ドイツ陸軍はこの侵攻作戦で南部軍集団に4個、北方軍集団に2個の機甲師団を配置していましたが、予定よりもかなり早く戦争を始めてしまった関係で、後に主力となるIII号戦車やIV号戦車は各々200両弱しかなかったといわれており、数の上では本来なら訓練用と目されていたI号戦車と、その発展型であるII号戦車、さらに、チェコスロバキア軍から接収した35(t)軽戦車が主力でした。これら戦車をかき集めることで、なんとか「2000両を誇る大戦車部隊」を作り上げたといえるでしょう。
ドイツ侵攻時、ポーランドは国産の7TP軽戦車を約120両保有しており、ほかにもルノーR35軽戦車、オチキスH35軽戦車など、戦車と装甲車合わせて500両から600両の機甲戦力を保持していたといわれています。
中でもイギリスのヴィッカース・アームストロングが開発した「ヴィッカース 6トン戦車」をライセンス生産した7TPは、37mm対戦車砲を装備し、徹甲弾を使用すればドイツのIII号戦車やIV号戦車と対峙しても状況によっては損傷を与えることができると目されていました。そのため、かなり優秀な戦力と考えられており、ドイツ軍側がI号戦車やII号戦車主体の部隊なら、有利に戦闘を進めることができました。
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ワルシャワ郊外で撮られたといわれるポーランド軍機甲部隊。かなりの数の戦車を同国が保有していたことがわかる(パブリックドメイン)。
ただ、このポーランド侵攻でポーランド側として最も語られることになる戦車は、軽戦車よりもさらに小型な「豆戦車」とよばれた車両でした。
首都ワルシャワ西方に広がるカンプィノス森で発生した戦車戦で、エドモンド・ローマン・オルリック見習い士官がTKSという豆戦車を操り、IV号戦車1両と35(t)戦車を2両撃破。さらに翌日のシェラクフでの戦いでも、35(t)戦車を含む7両を待ち伏せ攻撃で撃破。部隊全体では戦車20両を破壊したといわれています。
TKSには戦車砲はなく、20mm機関砲のみでしたが、巧妙な待ち伏せ戦術などを駆使して戦車を撃破したそうです。2022年2月から続いているロシアによるウクライナ侵攻でも、ウクライナ軍のM2「ブラッドレー」歩兵戦闘車が、至近距離からロシア軍のT-90戦車に25mm機関砲を連射して撃破した記録もあり、状況さえ整えば、現代戦においても機関砲で戦車に対抗することは可能なようです。
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TKS豆戦車の攻撃で撃破されたといわれるIV号戦車(パブリックドメイン)。
無駄な騎兵突撃であっけなく壊滅したという風説とは違い、実際にはポーランド陸軍は一部の戦車戦では、ドイツ軍より優位に立っていたものもあったとえいるでしょう。しかし、ドイツ軍は機甲師団のほかに空軍による航空支援もつけ、空陸一体の三次元的な戦術によってポーランド側を圧倒したのは間違いありません。
しかも、9月17日からは東部よりソ連軍も侵攻を開始。これにより持久戦を取ろうとしていたポーランドは挟み撃ち状態になったため、白旗を挙げざるを得なくなったというのが本当のところでしょう。
ただ、ポーランド軍が時代遅れでドイツ軍の戦車部隊に歯が立たなかったというのは真実ではない、というのは覚えておいてよいのかもしれません。