[沖縄戦80年][社説]軍官民共生共死 軍の方針が惨劇を招く

今から80年前の1944年。沖縄では、米軍上陸必至とみて、急ピッチで戦争準備が進んでいた。
この年の夏から秋にかけ、沖縄住民の命運を決定付けるような重要な方針が、軍や政府から相次いで示された。
8月31日、第32軍兵団長会同において牛島満司令官が行った訓示。
10月6日、閣議決定された決戦与論指導方策要綱。
10月、参謀本部と教育総監部が作成し全軍に配布した上陸防禦(ぼうぎょ)教令(案)。
11月18日、第32軍司令部が出した報道宣伝防諜(ぼうちょう)等に関する県民指導要綱。
これらの文書は大本営や沖縄の32軍司令部などが当時、何を考えていたのかを示すもので、秘密扱いされ、一般に知られることはなかった。
牛島司令官は訓示の中で、現地自活を徹底するとともに、官民が喜んで軍の作戦に寄与するよう住民を指導し、防諜には特に注意するよう求めている。
与論指導方策要綱は、米英人の残忍性を実例を挙げて示し、彼らの暴虐行為を暴露するなど敵がい心を育てることが重要だと説く。
上陸防禦教令は「不逞(ふてい)の分子等に対しては機を失せず、断固たる処置」を講じると強調している。
県民指導要綱は「六十万県民の総決起を促し」「軍官民共生共死の一体化」をうたっている。
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「軍官民共生共死の一体化」という言葉は、沖縄戦を象徴するキーワードとして繰り返し引用され、語られてきた。
沖縄戦で「集団自決」(強制集団死)や日本兵による住民殺害が相次いだのはなぜか。
これらの文書は、その問いを検証するための欠かせない資料である。
将兵が身に付けるべき行動規範を説いた戦陣訓は、天皇のために死ぬことを賛美し、敵の捕虜になることを事実上、禁じた。
そのような戦場道徳を身に付けた将兵は、軍事機密が漏れるのを恐れ、住民が捕虜になるのを警戒した。
実際、沖縄戦では米軍上陸後にスパイ容疑をかけられ、日本兵に殺害されるケースが各地で起きている。
サイパンの戦いでは、多くの邦人が断崖から身を投じた。米兵に対する恐怖心が刷り込まれていたのだ。
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なぜ日本軍は、投降を認めることで住民を保護するという「まっとうな方針」を採用せず、民間人まで道連れにしたのか。
サイパン陥落の際、大本営・政府連絡会議でこの問題が持ち上がり、議論が交わされた。
「居留邦人に自害を強要することなく軍とともに最後まで戦い、敵手に落ちる場合あってもやむを得ない」との趣旨の結論になったという。だが、この結論は秘密にされた。
民間人の投降を許容する方針が明確に示されていれば、沖縄戦の様相は変わっていたはずだ。