「戦車先進国だったんじゃ…」第2次大戦初頭の激突でボロ出したフランス 露呈した大きな弱点とは?

世界で初めて旋回式の砲塔を搭載する戦車を開発したフランス。第2次世界大戦でもスペック的にはドイツより優秀な戦車を数多く揃えていましたが、緒戦のアニューの戦いから重大な弱点をさらしていくことになります。
いまから80年あまり前の1940(昭和15)年5月12日から14日にかけて、ベルギーのアニューでフランス軍とドイツ軍による、第2次世界大戦前半で最大規模となる戦車戦「アニューの戦い」が発生しました。
「戦車先進国だったんじゃ…」第2次大戦初頭の激突でボロ出した…の画像はこちら >>アニューの戦いでフランスの主力的な戦車のひとつだったソミュアS35(柘植雄介撮影)。
この戦いでフランス軍は、自国領内に進攻しようとするドイツ軍を一時的ではあるものの押し返すことに成功します。しかし、勝利したこの戦闘こそ、戦車先進国と目されたフランス軍の弱点が露見してしまった戦でもありました。
アニューの戦いよりさかのぼること20年以上前の1918(大正7)年、第1次世界大戦においてフランスは世界に先駆けて、全周旋回式の砲塔を搭載するルノー FT-17軽戦車を戦場に送り出しました。同車の構造は画期的なもので、この形は第1次大戦後、戦車の基本形となります。そしてフランスは、第2次世界大戦勃発時でも、騎兵戦車のソミュアS35、軽戦車のオチキスH35、中戦車のルノーD2、重戦車のルノーB1など、火力・装甲共に優れた戦車を数多く保有していました。
ドイツ軍がフランスへの攻勢を始めた段階で、戦車の数はフランス、イギリス合わせて3000両を超えており、攻める側のドイツは2500両程度でした。しかも、ドイツ軍は戦前の計画で主力に据えようとしていたIII号戦車やIV号戦車の数が満足に揃っていなかったため、より小型で装甲も薄く、武装は機関砲しかないII号戦車や、チェコから接収した35(t)、38(t)などの軽戦車を実質的な主力に据えていました。
アニューの戦いは、ドイツ軍が主攻と定めていたアルデンヌ方面で大規模攻勢に出る直前の陽動にする形で行われます。なお、戦車の数については防衛側であるフランス陸軍の第3軽機械化師団はソミュアS35、オチキスH35などを合わせて400両以上あったのに対し、ドイツ軍は、まともな戦力となるIII号戦車が70両、IV号戦車を50両程度しか用意できていませんでした。しかもフランス戦車は防御力に優れていたため、III号、IV号のいずれでも撃破は難しく、カタログ上は質・量ともに完全にフランス優勢の状態だったのです。
そうした状況で戦いは始まりました。
しかし、数日間の戦闘でドイツ軍が約50両の戦車を失ったのに対し、フランスは約120両もの戦車を喪失。ベルギー戦線の崩壊を防ぐことには成功したものの、大きな損害を負いました。
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数の上ではドイツ軍主力だったII号戦車(柘植雄介撮影)。
このフランスの苦戦には、戦車が歩兵支援用車両という思想から抜け出せていない、古い考えであったことが、おおいに影響したと言われています。ドイツ軍は1935(昭和10)年に再軍備を開始したときから、戦車同士の連携を重視し、新戦車の開発とともに無線の普及にも力を入れ、さらに車長用に喉の振動音を直接拾う咽喉マイクをいち早く採用していました。対するフランスは、無線が装備されていない車両が多く、連絡手段には手旗信号を用いるなど、個々の車両の連携が不十分でした。
さらに、戦車の指揮をとるはずの車長が主砲の操作・装填まで担当する、すなわち砲手も兼任するという古い設計思想の車両が多かったことも大きかったとか。兼任すると、どうしても車長は周囲を広く警戒するといったことや、状況を見て攻撃を仕掛けるべきなのか、守勢に回るべきなのか、はたまた撤退しなければならないのか、といった判断が後回しになります。
目の前の敵ばかり見続けることで、戦場の変化に対応できる柔軟な動きができなくなった結果、思わぬ損害を出したと言えるでしょう。
アニューの戦いの後、アルデンヌの森を抜けてきた機甲師団が主体のドイツA軍集団相手には、さらなるフランス戦車の問題が露見します。当時、フランスは強固な陣地を構築したうえで守勢に徹する戦法でしたので、戦車もそれに特化する形となっており装甲が分厚い代わりに速度が遅かったのです。
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アラスの戦に参加したマチルダ歩兵戦車(柘植雄介撮影)。
さらに速度だけではなく、燃費も悪い戦車が多かったので、状況次第では歩兵の方が速く移動できたほどだとか。戦車の中には、無理な追撃を行った結果、途中で燃料切れとなり、そのまま放置されてドイツ側に鹵獲(ろかく)されたものもありました。
そのため、セダン方面に侵攻してきたドイツのラインハルト装甲軍団相手に、長大な戦線に散らばった戦車をうまく編成することができず、機動力で防御手薄な突出部の側面を突き、補給路を断つことができませんでした。結果、かなりの数の戦車が戦線には投入されず、地中に埋められトーチカがわりにされたと言われています。
セダンを抑えられ、劣勢に転じた後のフランス戦車部隊は、フランス軍の指揮系統の混乱もあり、さらに精細を欠くこととなります。
1940(昭和15)年5月21日、アラスで行われた戦車戦では、混乱するフランス軍にかわり、イギリスの戦車部隊が主体となるほどでした。緒戦でドイツの侵攻を食い止めるなど、一部では、ドイツ戦車を上回る高性能ぶり見せたフランスですが、あまりにも防衛戦に固執したプランで戦車も開発してしまったため、戦争全体でみると、軽快なドイツ戦車に圧倒される形となってしまったと言えるでしょう。