暗闇に負けない!希望の調べ 全盲のバイオリニスト・穴澤雄介さん

「ここですかね?」
開場前のステージで、この日の主役でバイオリニストの穴澤雄介さん(48)が立ち位置を確認する。
客席側から「時計と反対回りにあと10度ほどです」と返すのは、彼が毎日配信しているYouTubeチャンネルの撮影担当者だ。
東京・御成門のピアノ・カフェ「ベヒシュタイン」でのこの公演も第一部が生配信される。
定位置を決めた穴澤さんは足元に木製の棒をテープで固定した。
「踏んだ感覚でわかるようにティンバレス(太鼓の一種)のスティックを貼って、立体的な印をつけるんです。これがなかった時分には、ステージから落ちてしまったことがありました……」
午後1時、来場者の視線がサングラスにカウボーイ・スタイルの穴澤さんに降り注ぐ。その右手の弓が弦の上を行き来し、明るく軽やかなメロディを奏で始めた。
オリジナル曲『海峡を渡る風』では、指で弦をはじくピチカートという技法を用いて、津軽三味線のような鋭敏な音色を刻んで観客のテンションを引き上げる。
かと思えば手を止めて口笛を吹いたり、オタマトーンなる珍しい楽器でアニソンを愉快に奏でたり。
バラエティ豊かなステージ構成に一貫するのは、「譜面をめくって演奏するスタイルでない」こと。
「学生時代にほぼ視力を失った私は、ほかの演奏家と同じ手法では勝負にならないと悟っていました。プロの音楽家としての、私だけのスタイルを探してきたんです」
そう、穴澤さんは両目の視力をすべて喪失した中途失明者であり、全盲のバイオリニストである。
先天性の心臓疾患と心臓手術で目に著しくダメージを受け、高校3年生で右目、26歳で左目を摘出して、すべての光を失った。
そんな穴澤さんが曲間のMCで、声をはずませて、しゃべりだす。
「2日前に、YouTube用に『うる星やつら』のラムちゃんのお絵描きを仕上げたところです。
こんなふうにね、ラムちゃんのフィギュアを触りながら……」
あやしそうな手つきで、人形のボディラインをまさぐるしぐさ。
「全盲の私が感覚だけでデッサンすると、どんな絵が描けるかっていうゴキゲンな企画だっちゃ!」
おどけた口調に、女性が中心の客席が笑いに包まれる。
彼のチャンネルのオープニングトークも「全盲のユーチューバー、アナちゃんでございま~す!」
とアゲアゲな入りで、芸人みたいに始終コミカルなしゃべりなのだ。
近年では’20年東京、’22年北京のオリンピック・パラリンピックでNHKユニバーサル放送(視聴覚に障害のある人などが視聴しやすいよう、手話や字幕、音声解説などを充実させたコンテンツ)のコメンテーターも務めた多芸ぶり。
穴澤さん本人は、こう語る。
「ハンディキャップがあるからと大目に見てもらっているようでは、ダメだと思っていました。
私はイチ社会人として、プロの音楽家として食べていくことを、つねに望んできたんです」
多彩な楽曲と爆笑トークの底に、強い信念と自負心がうかがえる。
■先天性の障害が心臓と目に。小学校高学年で「一般的な仕事」は諦め、バイオリンを猛練習
ファンから「アナザー(穴澤)・ワールド」と称される独自世界を築いた穴澤さんは’75年3月29日、千葉県市川市に生まれた。
父は、医療機器会社に勤務する会社員で、母は専業主婦だった。
「私は先天性の障害が心臓と目にありました。生まれたときに紫色の顔をしていたそうで、即入院。2歳までほとんど病院で過ごしていて、入院や通院を繰り返していたのを覚えています」
幼少時期から運動を制限され、眼鏡をかけていた穴澤さんがバイオリンに触れたのは5歳のこと。
「幼稚園の友達と一緒にお稽古事として通いました。母親同士が決めたんだと思います」
世に中流意識が叫ばれた時代に、穴澤家は「中の上くらい」の生活水準だった。月謝は2千円、与えられたバイオリンは中古だった。
だが小学校中学年以降、心臓の動きがだんだん悪くなってきた。
「10歳で最初の心臓手術をしました。麻酔が効きすぎたのか、丸2日、記憶がありません。そしてそこから、どんどん視力が落ちてきてしまったんです」
先天性緑内障と診断されており、視野狭さくも大きくなってきた。
教科書を読むにも拡大鏡が必要で「人の3倍」時間がかかった。
「小学校高学年のころ『一般的な仕事には就けないだろう』と悟りました。同時に『演奏家だったらなれるかな』と。耳や手先の感性を研ぎ澄ましていけば、なんとかなると思ったんです。そこから、バイオリンを猛練習しました」
中学進学の際は、筑波大学附属盲学校中学部へ。「将来的に全盲になる覚悟をしなければなりませんから、盲学校を選びました。
盲学校では私より重度の障害がある級友がずいぶん明るく過ごしていたので、『弱音を吐いてはいられない』と励みになりました」
軽音楽部に入部してキーボードやパーカッション、ドラムを経験。
楽譜を見ながらの演奏は困難になってきて、耳で覚える「耳コピ」が主となっていく。
「音楽家志望ながら、楽譜を見ての演奏が基本となるクラシックは無理だと、選択肢が狭まっていく時期でもありました」
だが筑波大附属盲学校の高等部本科音楽科に進学後、視力はますます衰えていった。
「外出時にけがすることが増えました。思い切り何かに激突したり、転倒もするので、白杖を持つようになったんです。点字の勉強も、この時期から始めました。
ちなみに、私は駅のホームから、これまでに2度転落しています」
何げなく彼は話すが、つねに命の危険と直面しているのがわかる。
「視覚障害者の鉄道での人身事故は、時折、起こります。まったく予期できず線路に落ちるため、打ちどころが悪く致命傷になってしまうことだってあるんです」
この高等部時代に体育の授業で右目を負傷して、猛烈な痛みが引かず、17歳で右目を摘出手術。
折あしくバブル崩壊直後で、父が経営する会社も業績悪化する。
「もう『中の上の生活』なんて言っていられず、一度の受験失敗で音大進学もあきらめました。
高等部卒業後、2年の専門教育を受けられる専攻科音楽科に進学。音楽を仕事にするためでした」
’95年、専攻科を修了するとフリーランスで音楽活動をスタート。
「バイオリンを受け入れるバンドやアンサンブルを、探しては応募しました。でもグループに入っても、最初の楽譜の読み込みから、ほかのメンバーに著しく遅れてしまうんです」
楽譜を受け取り、視覚障害者のためのボランティアに依頼すると、1週間ほどで点訳が上がる。そこからやっと練習を始められるが、
「バイオリンは、楽譜を見ながら両手で弾きます。でも、私はまず点字を指で触れて理解し、その後にバイオリンと弓を持って……。
いちいち持ち替えながらでしか練習ができないから『人の3倍は時間がかかる』と言われるんです」
ほかのメンバーから、お荷物扱いされることもあった。
「あるとき『スケジュールが合わないから』と解散したアンサンブルが、私以外のバイオリニストで、ちゃっかり再開していました」
当時の仕事頻度は、バイオリンの家庭教師が週1~2回、ライブは多くて月2回ほど。
「ノルマのチケット代を回収しても、手取りわずか数千円でした」
理想とかけ離れた現実を味わい、悶々とした青春時代だった。
■生きたくても生きられない子が、世の中にはたくさんいる。粘り強く、しぶとく生きていこうと誓った
事件は21歳のときに起きた。父の会社の倒産と、夜逃げーー。
「その日、家庭教師バイトを終え、帰宅したのが21時ごろでした」
呼び鈴に応答すると、知らない男性2人がいきなり入ってきた。
その後も立て続けに何人も上がり込み、20人ほどに取り囲まれた。
「そこで『父の会社が倒産した』と聞かされました。彼らは債権者だったんです。『父親の居場所を教えろ』『金を出せ、あるんだろ!?』怒鳴られ、脅され……本当にドラマのワンシーンのようでした」
商売道具のバイオリンだけ死守してほうほうの体で家を飛び出し、知人や友人宅を転々とした。
2カ月後なんとか4畳半アパートに落ち着いたが、家からは家財道具一式、持ち去られていて……。
「残ったのは炊飯器だけ。お米を炊いてもおかずを買う余裕がなかった。体重が40kg台に落ち、ガリガリに痩せ細ってしまいました」
視覚障害者の手当はあったが、それだけでは生活できない。市川市役所で追加支援の有無を聞くと、信じがたい差別発言を放たれた。
「50代の男性職員が、笑いながら『あなたみたいな人にできる援助はないということですわ』と言いました。強烈な悔しさで涙が出て」
その怒りが、一切の甘えと退路を断った。以来「どんなに小さい仕事でもくまなく探して取りに行く」営業スタイルで動きだした。
ライブハウスから結婚式場まで、片っ端から電話をかける日々。
「些少なギャラでも『ありがとうございます』と引き受けました。
高齢者施設のボランティア演奏も喜んで行った。ノーギャラでも、交通費が出て院内給食をいただければ御の字です。だって、おかずがあるんですから!」
経験を重ねれば、経歴に書ける項目も増えていく。職業訓練校に通って習得したパソコン処理で、履歴書も企画書もお手のものに。
「売り込みながら同時にコンテストを受けました。なるべく賞が取りやすいものから応募したんです」
たとえばビール会社のCMオーディションに採用された曲がFMラジオでOAされると即、実績に上書きして、また営業へーー。
「ふつうはクラシック奏者が書かないものも、構わず書いてアップデートしました。病院や施設での演奏歴もすべてです」
そしてついに、CDデビューのチャンスが。’99年、24歳でアルバム『シンシアリー・ユアーズ』を発表したのだ。
「プロとして『やっていける』と思えた瞬間です。収入はわずかでしたが、これを営業ツールにして『食べていける』自信になった」
’01年、26歳で左目を摘出手術して、両目が義眼となったが。
「かえって、スッキリしました。『もう目のことで闘わなくてもいいんだ』と。手術前、記念に自分の顔に向けてカメラのシャッターを切り、光の見納めをしました」
’06年、第25回浅草ジャズコンテストで金賞。そして’10年、障害のあるミュージシャンの国際音楽コンクール「第7回ゴールドコンサート」でグランプリを受賞。
再三の苦境もそのつど、笑顔で前を向き、乗り越えてきた原動力とは、なんだったのかーー。
「最初の心臓手術をした、10歳のとき、病室の隣のベッドに5歳の男の子がいました。その子は生まれてからずっと入院生活で病院を出られない子だった。
いつも消火器のおもちゃを握っていたあの姿に『遊びたくても遊べない、生きたくても生きられない子が、世の中にはたくさんいるんだ』と思い知らされました。
私自身は『どんなにつらいことがあろうと命を無駄にしない。粘り強く、しぶとく生きていこう!』と、あのとき誓ったんです」
だからこそ「食べていけること」の幸せをかみしめていたのだ。
夜逃げしていた父は、穴澤さんが29歳のころ消息がわかった。
穴澤さんはその後「付かず離れず」の距離にいて、父は71歳で亡くなった。
■与えられた環境でベストを尽くす。穴澤さんのメッセージは曲となって人の心を打つ
富山県在住でファンクラブ会長を務める星井光さんは、15年前、オリジナル曲『あの木に寄りかかって』を耳にして、心に響いた。
「父を亡くしたばかりだった私が、初めて聴いた穴澤さんの曲でした。富山で穴澤さんが参加したライブで、『父を思って書きました』演奏された、やさしい音色に号泣したのを思い出します。
いまも穴澤さんの曲に癒され、元気をもらいます。ジョギング中でも聴いているんです」
5月30日からは東京都写真美術館ホールを皮切りに、主演ドキュメンタリー映画『光をみつける』(永田陽介監督)が全国順次ロードショー公開される。
「中途失明で、心臓疾患があって、生活困窮者だった私が、なんとか演奏家として生活できています。
どこかにコンプレックスがあっても、人それぞれ与えられた環境で、ベストを尽くすことが大事。それを、ひとりでも多くの方に伝えていきたいと思っています」
穴澤さんの音が、先々で出会う人たちに、光をもたらしていく。
【後編】母は家出、父は夜逃げ 全盲のバイオリニスト・穴澤雄介さんの壮絶半生へ続く
(取材・文:鈴木利宗)