美空ひばりさんと言えば、言わずと知れた戦後最大のスターです。終戦後、なかなか気持ちが切り替えられずに、立ち直れない人もたくさんいたと聞きますが、大衆は天才少女の唄声に明るい未来を見たのでした。これだけのスターですから、彼女にまつわる本はたくさん出ています。ひばりさん本人、実の妹、付き人、プロダクションの社長、ノンフィクション作家によるもの。これらに目を通して私が断然興味をひかれたのは、ひばりさんのお母さんなのでした。
○ひばりさんと母・喜美枝さんは片時も離れない一卵性母娘
ひばりさんのお母さん、喜美枝さんはひばりさんのプロデューサーでもあったことはよく知られています。ステージママの代名詞でもありましたし、ひばりさんのそばから片時も離れず、また二人はいつも意見が一緒だったことから、一卵性母娘と呼ばれたりもしました。
ひばりさんはとんとん拍子にスターになったと思っている人が多いのではないかと思いますが、実際はデビューするまで、それなりに苦労しています。それはなぜかというと、当時歌手になろうと思ったら、音楽学校や宝塚、松竹歌劇団を経てプロになるか、作家の内弟子になることが王道でしたが、ひばりさんにはどちらもツテがなかったのです。いくら娘に歌の才能があると思っても、ツテというかコネがなければどうにもならない。多くの人はここであきらめるでしょう。
しかし、喜美枝さんはあきらめなかった。アマチュアの娘のために専属楽団を作り、全国ドサ回りを始めるのです。当時、小学生だったひばりさんに、学校を休ませてまで地方巡業しています。書籍によって微妙に数字は異なるのですが、ひばりさんと喜美枝さんが夫と子どものいる家に帰るのは、ひと月に1~2回だったそうです。
○「妻としてどうなんだ」と非難されても母・喜美枝さんはあきらめない
母親が子どもを学校に行かせず、さらに夫とその他の子どもを置いて仕事に出かけている。喜美枝さんは「妻としてどうなんだ」と近所の人や学校にも非難されます。楽団のメンバーが若い男性が多かったことから、不倫していると噂を立てられたこともあったそうです。根も葉もない噂がたったのは、おそらく周囲の人には、どうして喜美枝さんがそこまでしてひばりさんを芸能界に入れたいのかが理解できなかったからではないでしょうか。
当時の芸能界では、一家を養うために芸能人になる子もいましたが、ひばりさんのお父さんは鮮魚店を営んでいて、食べるのに困ることはない。ひばりさんのお父さんは歌などの芸事は大好きでしたが、それはあくまでも趣味、将来的には堅いところにお嫁に行き、よき妻、よき母になってほしいと思っていたそうですが、これが当時の親の一般的な感覚ではないでしょうか。当時の芸能界は任侠の世界とのつながりが深く、巡業先の楽屋にヤクザがやってきて、小遣いを渡さない喜美枝さんにドスをちらつかせたこともありました。レコーディングの出来栄えがよければデビューさせてあげるという詐欺にひっかかったこともありました。そんな目にあっても、喜美枝さんはあきらめなかった。
喜美枝さんの折れない心がひばりさんをスターにしたと素直な人は思うのでしょうが、心の汚れた私には、ここまで喜美枝さんが芸能活動にのめりこむには、他に何かあると思えてなりませんでした。で、実際あったのです。
ひばりの成功は母の夢と希望、そして夫への復讐だった?
ひばりさんのお父さんは、お母さんと結婚する前からつきあっていた女性がいて、結婚後もその女性と切れていなかった。お父さんとその女性の間には、子どもが二人いることを知った喜美枝さんは死のうと思いますが、子どもたちを置いてそんなことはできないと思いとどまります。現代の感覚で言うなら、お父さん、好きな人がいるなら結婚しないでおくれよと言いたいところですが、当時は上司にすすめられたら、結婚するのが当たり前という考えだったようです。自分は騙されていた。そんな絶望の日々の中で、喜美枝さんはひばりさんに歌の才能があることに気付き、彼女を大きな舞台に上げることを夢見るようになりました。喜美枝さんにとって、ひばりさんは失意の中でみつけた希望であり、夢をかなえることが夫に対する復讐だったのではないでしょうか。恨みというのはとんでもないパワーが生み出すことがありますが、ひばりさんの芸能界入りに貢献したと言えるのではないでしょうか。
芸能界入りしたひばりさんは順調にスターの階段を駆け上がり、喜美枝さんはひばりさんのすべての仕事にプロデューサーとして参加し、喜美枝さんの企画はヒットしていきます。鮮魚店のおかみさんからプロデューサーへ。ひばりさんだけでなく、喜美枝さんもチャンスをつかんだと言えますが、ここでめでたしめでたしとならないのが人生の難しいところ。
○父の女道楽は激しさを増し、よりによって母の妹とデキてしまう
スターとなって多忙を極めたひばりさんと喜美枝さんは、ますます家に帰れなくなり、それを理由に、お父さんの女道楽はますます激しくなります。喜美枝さんは自分の親族を呼び寄せて一緒に住まわせ、子どもたちの面倒を見てもらっていました。しかし、喜美枝さんの妹とお父さんがデキてしまい、妹は結婚しないまま出産しています。ひとつ同じ屋根の下にいるうちに恋が生まれたのかもしれませんが、私は、これはお父さんの“仕返し”だと思いました。世の中に女性はたくさんいるのに、よりによって一番手を出してほしくない人と関係を持つのは、復讐以外の何物でもないでしょう。
喜美枝さんは家にいない分、毎日のように電話でひばりさんの弟や妹とコミュニケーションも取っていたそうです。しかし、子どもたちは埋めきれないさみしさを抱えていて、弟たちは学校をサボるようになり、不良グループとつきあって大盤振る舞いするようになります。「母親があんなふうに仕事ばっかりしていたら、子どもはグレる」と周りは言ったそうです。父親が責められないのは、昔も今も変わりません。
父親と言えば、ひばりさんのお父さんは「娘に食べさせてもらっている」という世間の視線に耐え切れず、事業を興します。成功しなければという気持ちが強すぎたのでしょうか、過労がたたって肺結核となり、入院します。仕事を理由にお見舞いにすら行こうとしない喜美枝さんを、周囲は「冷たい女、かわいくない女」とみなしていたそうです。
○美空ひばりの名言「あなたが美空ひばりなのよ。」
喜美枝さんには「母らしからぬところ」もありました。ひばりさんは、俳優・小林旭と結婚しました。子どもの頃から芸能界にどっぷりつかっていたひばりさんですが、「かわいいお嫁さん」になろうと努力し、夫の頼みを聞き入れて仕事もセーブしたそうですし、家庭料理も必死になって覚えた。フツウの母親なら「それでいい」と言いそうなものですが、喜美枝さんは「芸を捨てた娘と暮らしたいと思わない」と家を出て行ってしまうのです。ひばりさんの結婚は間もなく破綻しますが、喜美枝さんは「人生で一番の不幸はお嬢の結婚、人生で一番の幸福はお嬢の離婚」と言ってはばからなかったそうです。娘が離婚して喜ぶのは、親というよりプロデューサーとしての目線ではないでしょうか。
ひばりさんは喜美枝さんが亡くなったとき、「あなたが美空ひばりなのよ。」と声をかけたそうです。これはおそらく、美空ひばりの今があるのは、あなたのおかげという最上級の感謝をこめた言葉なのでしょう。そのひばりさんを作り上げるために、喜美枝さんは、妻らしさ、母らしさ、女らしさに背を向けたことはどうしてなのか。女性にとって、これらが自由な人生を送る上での大きな足かせになりうるからではないかと思うと、背筋がうすら寒くなる思いがするのでした。
仁科友里 にしなゆり 会社員を経てフリーライターに。OL生活を綴ったブログが注目を集め『もさ子の女たるもの』(宙出版)でデビュー。「間違いだらけの婚活にサヨナラ」(主婦と生活社) が異例の婚活本として話題に。「週刊女性PRIME」にて「ヤバ女列伝」、「現代ビジネス」にて「カサンドラな妻たち」連載中。Twitterアカウント @_nishinayuri この著者の記事一覧はこちら