僚艦は18隻! 駆逐艦「浜風」竣工-1941.6.30 幾度も遭遇した主力艦の最期

旧日本海軍の駆逐艦「浜風」が1941年の今日、竣工しました。陽炎型駆逐艦の13番艦として、真珠湾攻撃から水上特攻まで多くの作戦に参加し、多くの場で僚艦「磯風」と行動を共にしました。
1941(昭和16)年の6月30日は、旧日本海軍の駆逐艦「浜風」が竣工した日です。陽炎型駆逐艦の13番艦として建造され、12.7cm連装主砲3基、25mm連装機銃2基、4連装魚雷発射管2基などを備えました。
僚艦は18隻! 駆逐艦「浜風」竣工-1941.6.30 幾度…の画像はこちら >>駆逐艦「浜風」(画像:Public domain, via Wikimedia Commons)。
初陣は太平洋戦争開戦のきっかけとなった1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃でした。この時「浜風」は空母群の護衛に従事しています。年が明けた1942(昭和17)年には南方へ進出し、ジャワ島攻略やセイロン沖海戦などに参加しています。
そして同年6月、太平洋戦争における勝敗の分かれ目となったミッドウェー海戦に参加。アメリカ軍艦載機による空襲で主力空母が次々と被弾する中、「浜風」は僚艦「磯風」とともに空母「蒼龍」の乗員を救助しています。この海戦で日本は空母を4隻失い、大敗を喫しました。
以降、アメリカ軍が徐々に制海権を握り始めます。日本軍が飛行場を建設しようとしたガダルカナル島に連合軍が上陸すると、島を巡り、周辺を含めた陸海空で激しい戦闘が繰り広げられました。「浜風」は物資運搬を主任務としつつ輸送艇なども護衛し、たびたび連合軍と交戦しました。
しかし戦局は連合軍が優勢であり、また艦艇に限っても多くが撃沈されていきます。「浜風」はラバウルやトラックなど南方の拠点を転々としましたが、いよいよ翌1943(昭和18)年1月にガダルカナル島からの撤退が決まると、「浜風」はその撤収作戦に従事しています。
その後も南方への作戦に参加しますが、海戦が勃発するたび作戦行動を共にする艦艇を失っていきました。1944(昭和19)年に入ると、6月のマリアナ沖海戦、10月のレイテ沖海戦に参加。いずれの激戦も生き抜き、沈没艦の乗員救助に勤しみますが、特にレイテ沖海戦では戦艦「武蔵」の護衛も担当しています。
11月には横須賀~呉間で、竣工したばかりの大型空母「信濃」の回航を護衛。しかし「信濃」はアメリカ軍潜水艦の雷撃により、竣工からわずか10日で沈没してしまいました。「浜風」は「武蔵」に続いて大型艦の最期を看取り、乗員を救助しています。
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戦艦「大和」。「浜風」も「大和」と運命を共にした(画像:アメリカ海軍)。
年が明けた1945(昭和20)年1月はじめ、台湾でタンカーとの衝突事故を起こした「浜風」は、修理のうえ1月末に本土へ帰還しました。そして3月、沖縄のアメリカ軍に対し、座礁させ砲台化した艦から砲撃を加えるという、実質的な水上特攻を下令されます。これには戦艦「大和」も含まれていました。
5日、「浜風」「大和」ほか軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦から成る艦隊は沖縄へ向けて出撃。しかし翌日にはアメリカ軍の潜水艦によって動向が察知され、攻撃を受けるのは時間の問題となりました。ただ、この日は交戦することなくそのまま翌7日を迎えます。
正午過ぎ、沖縄近海のアメリカ軍空母が発進させた艦載機の大編隊が襲来、艦隊は猛攻にさらされます。早くも被弾し航行不能となった「浜風」に、トドメとなる魚雷が命中しました。戦闘開始から比較的早く沈没してしまったため、「浜風」はその最期が、ほかの艦艇の多くの乗員に目撃されています。
「大和」の沈没もあり作戦は失敗。一連の海戦には、僚艦「磯風」「雪風」も参加していましたが、本土へ帰還できたのは「雪風」でした。さらにいえば、全部で19隻あった陽炎型駆逐艦のうち終戦を迎えたのも、「雪風」ただ1隻のみでした。