戦艦「武蔵」はレイテ沖海戦で本当に“白装束”だったのか? 撃沈間際の伝説の真相は

レイテ沖海戦で沈んだ戦艦「武蔵」にはひとつの伝説があります。艦のカラーをほかより明るい「銀鼠色」とし、囮となることで他の艦を助けたという話です。
今から79年前の1944(昭和19)年の10月24日。「大和」と並んで世界最大(総トン数)といわれる旧日本海軍の戦艦「武蔵」が沈没しました。「武蔵」はこのとき、フィリピン周辺海域で勃発したレイテ沖海戦で、第一遊撃部隊として参加していました。
戦艦「武蔵」はレイテ沖海戦で本当に“白装束”だったのか? 撃…の画像はこちら >>建造間もない頃の戦艦「武蔵」(画像:パブリックドメイン)。
このレイテ沖海戦に参加したときの「武蔵」には、ひとつの逸話があります。決戦直前にブレネイへ停泊した際、船体を塗装し直し、他の戦艦よりも明るく目立つ、銀鼠色(ぎんねずみ色)になったことで「武蔵」が囮となり、ほかの艦への攻撃を身代わりとなって守っていたという話です。この話はどの程度本当なのでしょうか。
色の詳細こそ判明しませんが、ほかの艦船よりも「武蔵」の色が明るかったという逸話は、同艦の副長付信号兵につき当事者でもあった細谷四郎氏の著作『戦艦武蔵戦闘航海記』(八重岳書房)でも「構造物のすべては真新しく塗装を施した。まるで武蔵は死に装束か」と記されています。また豊田 穣氏著の『雪風ハ沈マズ』(光人社)でも、決戦前に塗装をし直し、駆逐艦「雪風」の搭乗員らに「縁起がわるい」と思われていたという描写があります。
ただ、吉村 昭氏が同艦に関わった人の話を元に著した『戦艦武蔵』(新潮社)には、ブレネイへ停泊した際、延焼防止のために艦内の塗料をはがし、艦内が金属むき出しの壁になった話はありますが、船体を塗り直したという話はありません。
同艦が色を塗り替えて囮になったという逸話に関しては、異論を唱える識者も多くいます。なぜなら当時「武蔵」は日本海軍の戦艦の中で最新鋭で、しかも最大だったからです。本来ならばレイテ湾に突入させる方に使いたいはずです。
仮に囮役としてならば、第一部隊の戦艦では、「武蔵」「大和」よりも古い「長門」や同じくレイテ湾への突入を目的として編成された第二部隊で旧式の巡洋戦艦であるものの快速を誇る「金剛」「榛名」の金剛型の方が適任であり、最新鋭艦に囮役をさせるというのは考えにくいという話です。
さらにレイテ沖海戦時、「大和」に関しては甲板を黒色にしていたという話が「軍艦大和戦闘詳報 第三號」に記されており、ほかの艦も同様に黒っぽいカラーにしたのではという説もあるようです。
しかし色がどうであれ、レイテ島の北西で発生したシブヤン海戦において、ほかの艦にかわり集中攻撃を受け続けたのは事実です。アメリカ海軍の空母艦載機による日本艦隊への攻撃は、空から見るとひときわ船体の大きい「大和」「武蔵」に集中。その際、「大和」はなんとか回避しますが、「武蔵」は第一波、第二波攻撃と続けて魚雷を喰らってしまいます。被害を受けた「武蔵」は段々と速力を落とし、そこにさらにアメリカ艦載機が群がる結果となりました。
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公試運転中に撮られた「武蔵」の写真(画像:アメリカ海軍)。
敵機からの攻撃により速力が低下し、艦隊行動がとれなくなった後も「武蔵」は対空砲火撃ち続け、戦闘開始から約9時間後に魚雷20本と爆弾17発という膨大な数の直撃を受け沈没。この記録は「世界一被弾火薬量の多い軍艦」としてギネス記録としても認定されています。結果的ではありますが、この集中攻撃で「武蔵」がなかなか沈まなかったからこそ、他の艦船は前進を続けられたともいえます。