「戦艦は時代遅れ」を決定的にした「事件」とは? 「沈むはずがない」無敵の存在を過去の遺物にした日本海軍

1941年12月10日に発生した「マレー沖海戦」でイギリス東洋艦隊の最新鋭戦艦だった「プリンス・オブ・ウェールズ」が“航行中”に日本海軍機によって沈められました。これは戦史において大きな転換点になりました。
第二次世界大戦中の1941(昭和16)年12月10日、世界史上でも大きな事件が起きました。後に「マレー沖海戦」と呼ばれるようになるこの海戦で、イギリス東洋艦隊の最新鋭戦艦だった「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が完全武装で“航行中”に日本海軍機によって沈められたのです。
「戦艦は時代遅れ」を決定的にした「事件」とは? 「沈むはずが…の画像はこちら >>シンガポールに停泊中の「プリンス・オブ・ウェールズ」(画像:イギリス海軍)。
この“航行中である”という点が重要です。停泊中の戦艦であれば、それ以前にも撃沈例はありました。1940(昭和15)年11月11日にイギリス海軍がイタリア海軍に対し行ったタラント空襲と、1941(昭和16)年12月8日に日本海軍がアメリカ海軍に対し行った真珠湾攻撃です。
タラントでは1隻、真珠湾でも4隻、戦艦が航空機の攻撃で沈んでいますが、いずれも無防備な停泊中を狙われたものでした。そのため、反撃可能な状態で動いてさえいれば、「重武装かつ重装甲である戦艦は沈むはずがない」という一種の信仰のようなものが依然として残っていました。
イギリス海軍は、既に北海や地中海で始まっていたドイツ、イタリアとの戦いで両国の航空機から攻撃を受けていたこともあり、その自信はある意味では日米海軍よりあったかもしれません。
特に「プリンス・オブ・ウェールズ」は、キング・ジョージ5世級戦艦の2番艦としてこの年の1月に就役したばかりの最新鋭艦で、装甲などの防御力の面では他国の戦艦から頭ひとつ抜けているといわれていました。そのため、航空戦力の護衛がなくともマレー方面で上陸支援などを行っている日本船団の攻撃は可能と判断し「レパルス」及び駆逐艦4隻を引き連れて出撃します。
この行動に対し、日本海軍は急きょかき集めた九六式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機からなる航空戦力のみで「プリンス・オブ・ウェールズ」を中核とした艦隊を攻撃することを決断します。
航行中の戦艦を沈めることが不可能という信仰のようなものはもちろん日本海軍にもあり、当初は山本五十六連合艦隊司令長官ですら、運よく「レパルス」は沈められたとしても、「プリンス・オブ・ウェールズ」は大破が精一杯だろうと予想していたそうです。
それもそのはず、開戦前での研究では、航空機は戦艦の防空砲火を受けながら戦った場合、参加兵力の6割の損耗は覚悟しなければ戦果が出ないという報告もあったそうで、当時の日本海軍陸攻隊の人たちはもちろんその報告も知っている状態でした。それでも決死の覚悟で戦いに挑んだという訳です。
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「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」の攻撃を担当した一式陸攻(画像:パブリックドメイン)。
しかし、戦闘が始まると、ベトナムのサイゴン基地とツドウム基地を飛び立った九六式陸上攻撃機、一式陸上攻撃機の合計85機は、水平爆撃と魚雷による攻撃で英国の誇る大型戦艦2隻をわずか3時間で沈めてしまいます。
短時間で2隻が沈められた理由としては、艦載された対空砲の不具合や、そもそも欧州では航空魚雷で攻撃してくる航空機がまれで、自国の雷撃機で日本軍機よりも鈍足な「ソードフィッシュ」相手の訓練に慣れてしまった乗組員たちの対空砲火が適切ではなかったなどの問題もあるようです。
とはいえ、一番の問題はやはり護衛となる航空機がゼロで、一緒に防空を担当できる駆逐艦も4隻しかいなかったことが大きな要因でした。この海戦で、いかに戦艦といえども、航空機の援護なしには無力であることが完全に明らかとなり、日米海軍は航空母艦を主眼に置いた戦闘に切り替えていくことになります。
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マレー沖海戦時のイギリス艦隊。写真左端に「プリンス・オブ・ウェールズ」、その奥に「レパルス」。手前は駆逐艦「エクスプレス」ないし「エレクトラ」(画像:アメリカ海軍)。
この戦いを指揮し、終戦間際に最後の連合艦隊司令長官となった小沢治三郎中将(当時)は、「プリンス・オブ・ウェールズ」と運命を共にしたトーマス・フィリップス東洋艦隊司令官の死を悼み「いずれ我々にも同じ運命がくる」と発言したそうです。小沢中将自身はそうなりませんでしたが、後に「航行中を航空機に撃沈された戦艦」のリストには、日本海軍の最新鋭艦だった「大和」と「武蔵」が加わることになります。