太平洋戦争終戦直前の1945年8月7日、国産初のジェット機が初飛行に成功しました。一見するとドイツ製のジェット戦闘機をコピーしたように思えますが、実はほぼ独自開発なのだとか。模倣しなかったのには理由がありました。
第二次世界大戦で、日本の敗戦が目前に迫った1945年8月7日、旧海軍が開発した戦闘機「橘花」が初飛行を果たします。同機は国産初のジェット機であり、日本の航空史上でも重要な意味を持つ存在となっています。
日本初のジェット機「橘花」“ほぼオリジナル”って本当!? ド…の画像はこちら >>飛行テスト中の橘花(画像:SDASM Archives)。
橘花の形状は、当時の同盟国であるドイツのメッサーシュミットが開発したジェット戦闘機Me262に似ています。実際、同機を参考に開発されていますが、完全なコピー機であるかというと実はそうではありません。実はオリジナルの部分が多くなっています。理由は、Me262の情報がほとんど手に入らなかったからです。
Me262の資料は、哨戒艇のディーゼルエンジン技術と引き換えに、日本に提供されることになっていました。しかし、当時、日独間の航路はどこも米英を始めとした連合軍の勢力下にあったため、潜水艦で隠密裏に輸送するしかない状況でした。
そのようななか、設計図を乗せたドイツ潜水艦は大西洋とインド洋を渡り、1944年末に日本占領下のインドネシアのバリクパパンに到着。後は日本の潜水艦で本土に運ぶのみでしたが、その艦がアメリカ海軍の攻撃により沈没してしまいます。その結果、沈没前にシンガポールで陸揚げされたごく一部の文献資料や写真以外は全て失われてしまったのです。
こうして、ほとんどの資料が喪失したことで、「橘花」の開発はほぼ独自で行うことになります。特に、深刻だったのがエンジンで、Me262に搭載されているユンカース「ユモ 004」のデータはほぼ海中に没してしまったため、再現不可能でした。
しかし、残った資料の中に同エンジンより小型の「BMW 003」の全体図と写真が残されていたため、こちらを参考に中島飛行機の技師たちは国産ジェットエンジンである「ネ20」を開発。「ユモ 004」より小型のエンジンを積むということで、機体はMe262をサイズダウンし、ひとまわり小さくしたような形状になりました。
また、主翼もMe262のように後退翼ではなく、当時のレシプロ(ピストン)エンジン搭載機では主流のひとつだった、機体から直線的に主翼が伸びるテーパー翼としました。主翼の形状を変更したのは当時の日本の工業力の限界を考慮してのものだったとも言われています。 実は、戦闘機用ジェットエンジンの開発は、ドイツから資料が到着する以前の1944年8月から開始されていました。ただ、やはり独自開発は難航、そのようななかBMW 003の資料が日本に届いたことにより開発はようやく軌道に乗り始めたのです。こうして、1945年6月に「ネ20」が完成。すでに完成していた1号機に搭載し、同年7月に地上滑走試験を実施し、8月7日に約11分間の飛行試験を行うまでに至りました。
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アメリカ軍に接収された橘花(画像:パブリックドメイン)。
最初の飛行は無事成功し、技術者たちはひとまず安堵します。しかしその後、12日に行われた飛行試験で、離陸に失敗しオーバーラン。機体を修理している間に戦争は終わりました。
なお、「橘花」の機体は2024年現在、アメリカ国内に複数残されているほか、エンジンについては1基が日本へと里帰りし、IHIにて保管されています。