家族の病気やけがで乗りそびれた。
望郷の念を胸に秘め、英捷さんはソ連の一部だったウクライナに移住し必死に働いた。妻の故郷で穏やかな老後を迎えるはずだったが――。
ロシアによる侵攻後、支援者の尽力できょうだいのいる日本へ帰国するも、やり残したことがあるとウクライナに戻った。そこで見た戦争の現実とは。
■旧ソ連での暮らしは苦しかったが、奨学金を得て進んだ大学で妻と出会う
降英捷さんは44年、南樺太に父・利勝さん、母・ようさんの次男として誕生した。無線技士だった利勝さんの転勤で、一家は樺太内の知床村(現・ノヴィコヴォ)に移住。当時樺太のうち北緯50度以南は日本領で、約40万人が居住していた。
45年に漁村の札塔で終戦を迎えるが、ここから一家にとって流転の人生が始まった。
「幼かったから記憶はおぼろげですが、父母や兄から聞いた話では、戦局が悪化してからも技師をしていて有能だったため、父に帰還許可が下りなかったそうです」
そうしているうちに旧ソ連は8月9日、日ソ中立条約を破棄。樺太の中心都市である豊原(現・ユジノサハリンスク)を爆撃したのは22日のこと。ソ連軍は一般市民にも容赦なく機銃掃射の追い討ちをかけ、日本人5千~6千人が犠牲になったともいわれている。
戦後、樺太はソ連領となり父は魚の加工場で仕事を得たが、食うや食わず。降家の生活は貧窮を極めていく。
「引揚げ船に乗って帰還するチャンスを逃したのは、兄の信捷が荷馬車の車輪に足を巻き込まれ大けがをして半年寝たきりだったことが大きかった」
さらに48年の冬に生まれた妹タカ子さんが生後3カ月で急死してしまう不幸も重なった。引揚げ船は49年で完全に途絶えた。
53年、最高指導者だったスターリンが逝去したこの年、一家は350キロ北に離れたポロナイスク(旧名・敷香)へ転居することに。
「父がコルサコフ市役所に呼ばれ、転居を命じられたのです」
英捷さんが9歳のときのことだ。この地では妹たちが生まれ8人家族に。
日本に戻れる可能性が少なくなり、父が製紙工場で働くために住民登録が必要となったので、ソ連人として生きていく決断をした。一家がソ連国籍を取得したことは降家にとって転機となった。
「それまでは住民登録もできないし、ないと就職が難しくなる労働手帳ももらえない。2部屋しかないバラックが与えられるだけで父は懸命に働いても、最低限の賃金しかもらえませんでした。しかし、このときから昇給も年金も望めるようになりました」
高校卒業後、英捷さんは父と兄の信捷さんが働くポロナイスクの製紙工場に職を得た。そして持ち前の向学心により、工場から派遣される形で製紙業の専門科目のあるレニングラード(現・サンクトペテルブルク)工業大学への入学切符を手に入れた。
「志願者が現地へ赴き、正規の試験を受けて選抜されます。職場からは奨学金が支給されましたが、成績が悪いと打ち切られ故郷に戻る人もいた。卒業後、企業に戻り3年はお礼奉公がありました」
大学では英捷さんの人生を好転させる学びと出会いに恵まれた。
「家族と遠く離れた寂しさもありましたが、寮生活では私を異端者として扱わない生涯の友人たちもでき、さらに伴侶となる女性との出会いもありました」
妻となるリュドミラさんも向学心旺盛な女性だった。当時のソ連では20歳前に結婚する女性も多いなか、一度就職をしたあと、大学に再入学していたため英捷さんより3つ年上。清楚で控えめながら信念を感じさせる女性だった。
「物静かな性格も私と似ていて気が合いました。控えめですがこのときは彼女のほうから『知り合いになりたい』と意思表示をしてくれて。それですぐに学生結婚です」
結婚の翌68年に長男ヴィクトルさんが誕生。夫婦ともに無事に大学を卒業し、サハリンのポロナイスクに戻り一家3人の生活が始まった。しかし気候の温暖なウクライナで育ったリュドミラさんにとって、厳寒のポロナイスクで過ごす冬は厳しいものだった。
「その後ウクライナへの移住を決めたのは、妻の希望でもありました」
■妻や親戚とともに野菜を作りながら平穏な余生を送るつもりだったが……
英捷さんは、優秀な技師としてフレキシブルに職場を渡り歩いた。工場長や管理職というポストが与えられ奮闘した時期もある。
ひとりの技術者として、家族とともに異国の地で懸命に生きた英捷さん。ウクライナ在住は’71年から’22年までの半世紀に及んだ。
しかし、ゴルバチョフが80年代後半に始めたペレストロイカにより社会が激変する。91年のソ連崩壊後、英捷さんはウクライナ国籍となった。
「ペレストロイカ前後のことは語り尽くせません。社会が混乱し、給料が現物支給されるなど、行き詰まった時期もありました」
そしてこのころから、閉ざされていた日本への帰国支援事業が始まっていた。
07年8月、英捷さんは64歳にして一時帰国団の一員として初めて日本の地を踏んだ。
印象に残るのは、同行した息子が「日本はなんてきれいな国なのだろう」と楽しそうにしていたこと。
「帰国支援事業を担っていた日本サハリン同胞交流協会(現・日本サハリン協会)の当時の会長が東京観光に連れていってくれました。私自身は本格的な日本料理を食べて感激し、きれいな道路に感嘆し、日本人の礼儀正しさ、北海道の自然の美しさに感動しました」
兄の信捷さんや五女のレイ子さんら、英捷さん以外のきょうだいは’09年までに配偶者らとともに永住帰国を果たしていた。
英捷さんは息子や妻を伴い合計3度の一時帰国を経験するなか、日本への「永住帰国」を考えることもあった。しかし結局は「いまから異国で暮らすことは難しい」という妻の意思を尊重した。
ジトーミルに、心のよりどころとなる900平方mのダーチャ(菜園付き別荘)も手に入れ、週末には妻の親戚たちと集い、彼らとも固い絆で結ばれていることを感じていた。
このままウクライナで妻とともに余生を送っていくのだと信じていた英捷さんに、突然の別れが訪れた。
19年、股関節の手術で入院していたリュドミラさんが術後、心筋梗塞を起こし急逝してしまったのだ。
そして妻亡き後、息子と暮らした日々もつかの間、ヴィクトルさんも21年に病死してしまう。
その後、日本に住む妹から「お兄さんも独りになったのだから、永住帰国したらいいのに」と、日本への帰還を促されるようになった。
それでもウクライナには妻子の墓もあり、妻の親戚たちもいる。なによりこの年で日本に帰っても日本語がおぼつかない――。
技師としての仕事は12年に引退、その後は地元の修道院で働いた。技師のキャリアを生かし管理や修繕などを請け負い、シスターたちの信頼も得られていた。このまま妻の親戚や孫たちのそばで生きることしか生きるイメージが湧かなかった。
■英捷さんは心臓疾患を抱えながら、孫やひ孫たちとポーランドへ脱出
しかし22年2月、ロシアによる侵攻が英捷さんの運命を変えた。
「街の噂で警戒感は高まっていましたが、まさか本当にロシアが侵攻してくるとは。私はまったく予想していませんでした」
市内の集合住宅2棟が爆撃され、破壊された残骸を目にした。その数日後の22年3月5日、「インナとソフィアとともに避難してくれないか」と、孫のデニスさんに促され、その妻インナさんとひ孫のソフィアちゃん、そして大学生の孫ヴラーダさんとも合流し日本への緊急避難を決意。
英捷さん以外は全員女性。総動員令が発令され、18歳から60歳までの男性は例外を除き、国外へ出ることが禁じられていたからだ。英捷さんらはインナさんの父が運転する車に乗った。避難民の車列でびっしりと道が埋め尽くされるなか、ポーランドへ脱出。
「心臓は痛くない?」
狭い車中、インナさんとヴラーダさんは心臓に疾患を抱える英捷さんの体調を気遣ってくれた。
「大丈夫だよ」
2人を安心させるため、平常心でいようと英捷さんは大きく深呼吸をした。
西部の都市リビウまで7時間、さらに隣国ポーランドの首都・ワルシャワまでは1時間半。途中の街で泊まり、大渋滞が発生するなどし、ポーランドにたどり着いたときは8日になっていた。
「体調はもちました。私のパスポートの期限が切れていて。出国できないのではないかとか、『何が待ち受けているか』という心配と緊張からか、乗車中は1時間置きに停車してトイレに行かなければならなかった」
そして3月19日、英捷さんは、父母が望郷の念を抱きながら帰れなかった日本の地を踏むことになった。
「まさかこのような形で、故国となったウクライナを追われ、日本に帰ることになろうとは――」
■ミサイルが上空を飛び交い、頻繁にサイレンが鳴り響く夜。この状況が日常となって
現在、北海道の旭川で英捷さんが一人暮らしをするのは緑豊かな高台に立つ公営住宅。妹のレイ子さんがすぐ隣の棟に暮らす。
ウクライナから英捷さんとともに日本に避難した孫の妻のインナさんは、着いた早々に妊娠が判明。1カ月も滞在せず、娘のソフィアちゃんとともにウクライナへ帰還した。やむなく大学を休学していた孫のヴラーダさんも、1年5カ月を日本で過ごしたのち、復学のために故国で生きる道を選択した。
ウクライナの現状を目にした英捷さんは現地に思いを馳せる。
「彼女たちが無事で生きていってくれることを祈るしかありません。ジトーミルはいまだにミサイルが上空を飛び交い、頻繁にサイレンが鳴り響く夜が続いている。いまやこの状況が日常となってしまっているのです」
私は軍事専門家ではなく、普通の市民である――と前置きし、英捷さんはこう訴える。
「戦争は絶対にしてはいけない。当初半年で終わるといわれていた戦争は2年近くも続いています。いったいいつ終わるのか。親戚同士、兄弟同士で殺し合うこともあるのです。そんな悲惨な戦争は早く終わらせなければなりません」